カテゴリ: 気になった言葉

先月博多で宿泊したホテルは、十数年前の年末年始にも泊まった処だった。その時のことをときどき思い出す。当時、一人で正月を過ごすつまらなさから旅に出ることにしていた。ただ、ホテルに泊まったとしてもやることは同じだった。当時ハマっていた海外のコメディドラマのDVDをコンピューターで見、飽きたら街を散策した。歴史ある
地の正月は商店街をはじめデパートも閉まっている。人影もない。白猫が一匹いたくらいだ。大気が澄み、静かな正月が清々と広がっていた。そこには馴染むどころか受け入れられる雰囲気はどこにもなかった。仕方なく部屋にもどりまたDVDを見た。正月にホテルに投宿しての楽しみは朝食におせち料理がでることだ。豪華で正月が華やぐ。獅子舞も登場したホテルもあった。仲居さん達が着物姿で、そろって新年の挨拶をしてくれ、こちらも返す。目出度さが形になる。独り家にいては生まれない新年の寿ぎ気分だ。その頃の自分はすべてに飽いていた。時の流れや明日の存在に途方に暮れ、ただ在った。確か正月の2日か3日の真夜中だった。寝ぼけていたのか、はっと飛び起きた。酔っていたのではない。その頃酒とのつきあいはなかった。だから、そのことは間違いのない現象だった。
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前回のブログで獺祭と書いたが、読めないといった声があがった。読みは「だっさい」。獺は、ウソ、カワウソのことだ。

Webから
獺祭の言葉の意味は、が捕らえた魚を岸に並べてまるで祭りをするようにみえるところから、詩や文をつくる時多くの参考資料等を広げちらす事をさします。 獺祭から思い起こされるのは、明治の日本文学に革命を起こしたといわれる正岡子規が自らを獺祭書屋主人と号した事です。」

これを酒の名にした。
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よく勘違いや読み違えがある。勘違いは自己処理できるが、読み違えは恥をかく。子供の時や学生時代に間違って覚えそのままになっている。当然勉強不足なのだ。その世界に縁がなかったこともある。TVの「なんでも鑑定団」を観てた。画家の小磯良平の絵が紹介されていた。懐かしい絵だった。そういえばこんな絵があったなと思った。誰が描いたのかも知らなかったが、好きな絵だった。一つ利口になった。題も出た。ふむふむ、えっ、そう読むのかと驚いた。読み違え、勘違いだった。題は「斉唱」だった。音では、知っていた。字面から入ったことはなかった。

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「百年の孤独」が翻訳され日本に紹介されたときすぐ読んだ。壮大な物語に理解というよりどう受け止めてよいか分からずただ読破した。難しい解釈は後年評論家や雑誌しでしてくれるだろう、と若かった自分はそう処理した。残念のは、当時金がなく古本屋に売ってしまったことだった。その後、「予告された殺人の記録」を映画で観たときこういったストーリー性があるものも書くのかと思った。現実に起きた事件を長年取材したという。それで「百年の孤独」を再読しようとしたとき書店にはなかった。こういった本にもブームがあった。手にした雑誌を開いたら、ガルシア=マルケスの言葉があった。

「人の生涯とは、人が何を生きたかよりも、何を記憶しているか、どのように記憶して語るかである」

とあった。思いあぐねていたことがこの言葉によって消え、書く意欲が湧いてきた。
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TVに表出されるたびに「セクハラオヤジ」に見えてしまう。
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「若い生活をしている者は若い。老いた生活をしている者は老いている」
作家・井上靖の「氷壁」:週刊新潮のなかで紹介されていた。
高齢者へだが、いつの時代もおなじということだ。
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「センスは経験から生まれる」
広告関係の本を読んでいたら、小山薫堂が対談で言っていた。対談相手かもしれない。どちらにしろ、同感。
<有名人等には、敬称を省きます>
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