旅  その7  BAR2軒目の2

どこでも、どうぞ。ため息混じりでマスターは言った。歓迎されてない客だ。どこでもと言われても、右隅には、さっき見たホステスと同じ衣装の女性が左手で垂れる髪を抑えながらグラタンを食べている。ドレスは黒だった。彼女から離れた3つ目の椅子にする。じぶんの左手には椅子が2つ。それだけだった。マスターは目の前のグラスや灰皿を押してスペースを作りカウンターを拭いた。オーダーをしてこない。察するにじぶんは、一悶着があった一人が戻ってきて、驚いたのか、身構えたようだ。間が悪い客ということだ。こちらから、メニューを頼む。また来ると言って帰ってもよかったが、なんとなく面白がっているじぶんがいる。

メニューを開くとずらりと酒の名が並んでいる。ここまで列記しているBARは初めてだった。ウィスキーが飲みたかった。日本のものは日常で飲んでいる。海外のものに目を走らせる。どうせなら珍しいものを飲んでみたい。世界の銘柄があるが大半は飲んだことがある。海外の独特に味を誇示するものは今夜の気分でない。飲み慣れた日本のものにするかと見たら、記憶にない名があった。「イチローズ・モルト」初めてみる。水割りで注文すると、マスターのバーテンダー魂に火がついた。これは、ロックで飲んでください。いまや1本数万円でなかなか手に入らなく、この前やっと入ったばかりなんです。それでロックにされた。内心、野球のイチローが関係するのか、なんて思ったがまさかだから黙っていたら、マスターは、秩父の酒で、最初は安い酒だったのですが、国の公式な場になにかないかと聞かれ、使われてからグングン高くなっちゃっいました、とこぼした。飲んだ。うん、旨い。竹鶴ほど濃くなく、サントリー系ほどの淡麗さでなく、ウィスキーの味が静かにたゆたっていた。ガタイはいいが柔和な顔のマスターはバーテンダーなのにベストでなくスーツだった。

もう一種類飲もうとしたとき、バタンと大きな音をたてて男が入ってきた。じぶんの左手ひとつ開けた隅の席に勢いよく座った。息せき切って、ありがとう、助かったよ。マスターは、よかったですね。何か食べさせてよ、パスタにしますか。ああ、それでいい。次の一言に酔いが醒めた。おかげで儲かったよ。じゃ何か奢ってください。なんでもじゃんじゃん食べて。マスターは黒ビールを入れて一口飲み言った。億ですか。細身で背の高い初老の男は、頷かなかったが、ニンマリとした気配だ。二人は私の存在を無視して、祇園のマンションの価格の話題をはじめ、1億、2億でどうのこうのと顔をつき合わせるように話し込んだ。もっと聞いていたかったが、席を立つことにした。マスター、もう帰るの、とお友だち言葉になっていた。来年、また来ます。残念そうな雰囲気で、え〜とえ〜ととペンと紙で計算した。思いのほか安かった。